ビル・バウワーマンとは? ナイキの原点を作った男と、コルテッツ・ワッフルの誕生
INTRODUCTION
ナイキの歴史は、選手の足元から始まった。
もっと軽く、もっと走りやすいシューズを。その探求が、世界的なスポーツブランドの原点となった。
スニーカーカルチャーを語るうえで欠かせない“NIKE(ナイキ)”。数々の名作を送り出してきたブランドの歴史には、選手を指導しながら、自ら靴を作り替えた一人のコーチがいる。共同創業者の“BILL BOWERMAN(ビル・バウワーマン)”だ。
選手の走りを観察し、足の状態を調べ、シューズを分解する。素材や構造を変えた試作品を履かせ、再び走りを確かめる。後にナイキを代表する“CORTEZ(コルテッツ)”やワッフルソールは、そうした地道な改良から生まれた。クラシックなデザインとして親しまれる名作の背景には、ランナーの能力を引き出すための工夫が積み重なっている。
01THE COACH
ビル・バウワーマンとは何者か。
その指導は、練習メニューや記録の管理にとどまらなかった。選手が力を発揮するためには、足元の道具にも改善の余地がある。走るたびに持ち上げるシューズを軽くできれば、選手への負担を減らせる。足に合う構造を作れれば、練習をより快適に続けられる。コーチとして日々選手と接する立場が、シューズ開発へ向かう出発点になった。
1911年、米国オレゴン州ポートランドに生まれたバウワーマン。オレゴン大学で学び、高校での指導経験などを経て、1948年に母校へ戻った。大学の陸上チームを率いた24年間で、チームを4度のNCAA優勝へ導き、ケニー・ムーアやスティーブ・プリフォンテーンをはじめ、多くの優れた選手を育成。1972年にはミュンヘンオリンピックの米国陸上代表ヘッドコーチも務めている。
地域の陸上大会や競技環境の整備にも関わり、ユージーンが陸上の街として発展する土台づくりに尽力。選手の育成と、走る環境を整える活動を並行して続けた人物だった。
02THE WORKSHOP
理想のランニングシューズを、自分の手で。
既存の靴を分解して構造を調べ、アッパーやスパイクの部品を組み替える。さらに選手の足の輪郭や幅を測り、かかとや足首の違いを記録。素材も一つに絞らず、軽さ、柔軟性、耐久性の組み合わせを探った。
1950年代、バウワーマンは既製のランニングシューズに改良を加え始める。当時のシューズは重いレザーや金属の部品を使ったものが多く、軽量化は大きな課題だった。メーカーへ改善案を送っても、思うような反応は得られない。そこで彼は、地元の職人から製靴を学び、自らの手で解決策を探るようになる。
この開発では、試作品を作ることと、選手に履かせることが一続きになっていた。足に当たる場所、破れた部分、ソールの減り方。その一つひとつが、次の改良につながる。完成した靴を選手へ渡した後も、走った結果を見て作り直す。その繰り返しが、バウワーマンのシューズづくりを支えていた。
03JAPAN & BLUE RIBBON SPORTS
フィル・ナイト、日本、そしてナイキの前身。
バウワーマンの試作品を履いた学生の一人に、“PHIL KNIGHT(フィル・ナイト)”がいた。コーチと教え子として出会った二人は、後に事業のパートナーとなる。1964年、ナイキの前身となる“BLUE RIBBON SPORTS(ブルーリボンスポーツ)”を設立。日本のオニツカが製造するランニングシューズを、米国へ輸入して販売する事業を始めた。
この関係は、バウワーマンが考案した改善案を製品へつなげる機会にもなった。同年、東京オリンピックに合わせて来日した彼は、オニツカの創業者である鬼塚喜八郎らと対面。工場では裁断や縫製の工程を学び、自らのアイデアについても話し合った。
米国の競技場で見つかった課題が、日本の製造現場へ送られる。そこから届いた試作品を、再び選手が履いて走る。ナイキの初期のものづくりには、オレゴンのコーチと日本のシューズメーカーを結ぶ、この往復があった。
04CORTEZ
長く走るためのクッション。
オニツカ時代に育てられたコルテッツの開発は、ナイキのシューズへと引き継がれ、1972年にナイキ コルテッツが発売される。特徴の一つが、柔らかさの異なるスポンジラバーを組み合わせたミッドソール。かかとへの衝撃を受け止めるクッション構造には、長く走るための工夫が盛り込まれていた。
コルテッツ誕生へつながる重要な出来事が、1965年に起きる。オレゴン大学の長距離ランナー、“KENNY MOORE(ケニー・ムーア)”の足に骨折が判明したのだ。バウワーマンが練習用のシューズを調べると、それはランニング用として扱われていた走高跳用のモデルだった。
靴を分解すると、クッションやアーチの支持性に問題が見つかった。バウワーマンはムーアのためにシューズを作り、日本の生産パートナーへサンプルと指示書を送付。クッション性や耐久性を改善した試作品を用意し、実走を重ねながら調整を続けた。
ソールを厚くする。底面を広げる。足型とアッパーの組み合わせを変える。ムーアはさまざまな試作品で1,000マイル、約1,600km以上を走り、その結果が改良へ反映された。一人の選手の足を支えるための取り組みが、後のトレーニングシューズの基礎になったのである。
ホワイトのソールに挟まれたブルーのラインも、その構造と結びつく。素材の密度の違いを目立たせるために用いた色が、コルテッツを印象づけるディテールになった。レッドのスウッシュとブルーのラインが映える姿には、機能の改善がデザインへとつながった、初期ナイキらしい発想が表れている。
05WAFFLE
朝食の道具が、靴底を変えた。
この実験は、後の“WAFFLE TRAINER(ワッフルトレーナー)”へと発展する。トレーニングで使うためのクッションや安定性も追求し、より多くのランナーへワッフルソールを届けたモデルだ。ブルーのアッパーとイエローのスウッシュ、その下に並ぶラバーの突起。初期ナイキを代表する姿は、グリップを改善しようとした試行錯誤から生まれた。
クッションと並び、バウワーマンが追求したのがグリップだった。軽さを保ちながら、路面をしっかりと捉えること。その発想のきっかけとなったのが、家庭にあったワッフルメーカーである。
規則的に並ぶ凹凸を靴底へ応用できないか。バウワーマンは調理器具へウレタンを流し込み、ソールの実験を始めた。最初の試みでは材料が固着し、ワッフルメーカーが開かなくなる。それでも実験は続き、型や素材の調整を重ねながら、走るための靴底へ近づけていった。
そこから生まれた初期の試作靴が、“MOON SHOE(ムーンシュー)”だ。1972年の米国オリンピック選考会に向け、バウワーマンとジェフ・ホリスターらが手作業で製作。薄いアッパーとワッフル状のソールを組み合わせた姿には、軽量化を追求した簡潔な構造が見て取れる。土に残る独特の足跡が、宇宙飛行士の月面の足跡を思わせたことから、その名で呼ばれるようになった。
06RUNNING CULTURE
競技場から、日常のランニングへ。
バウワーマンが取り組んだのは、競技用シューズの開発だけではない。1960年代にはユージーンでジョギングの普及に関わり、1967年には共著『JOGGING(ジョギング)』を出版。記録を競う選手に加えて、日常の運動として走る人々へもランニングを伝えた。
走る人が増えれば、シューズに求められる役割も広がっていく。長い距離を快適に走れること。繰り返しの練習に耐えられること。さまざまな路面で使えること。コルテッツやワッフルソールが追求した要素は、トップ選手と日常のランナー、その双方の足元につながっていた。
ランナーを指導し、走るための道具を改良し、走る習慣を広める。バウワーマンの活動をたどると、初期ナイキのシューズと、ランニングが生活へ浸透していった時代が重なって見えてくる。
EPILOGUE
名作に残る、バウワーマンの問い。
コルテッツのソールを横切るライン。ワッフルの底面に並ぶ突起。今では見慣れたディテールも、その背景をたどれば、ランナーの足に起きた問題や、路面への不満に行き着く。
バウワーマンは、それらを見過ごさなかった。選手の足元を調べ、靴を分解し、素材や構造を変えて、もう一度走らせる。名作を生んだのは、改善すべき部分を探し続ける姿勢だった。
もっと軽く、もっと快適に、もっと長く走れる靴を。コルテッツとワッフルには、その問いに向き合った工夫が残っている。ビル・バウワーマンの歩みを知ることは、クラシックな一足を、走るために生まれたシューズとして見つめ直すことでもある。
TIMELINE
人物年表
1911年
2月19日、米国オレゴン州ポートランドに生まれる。
1934年
高校で教員・スポーツ指導者としての歩みを始める。
1948年
母校オレゴン大学の陸上チームを率い、選手の育成に取り組む。
1950年代
既製のシューズを分解し、軽量化や足に合う構造を探る。手製の試作品を選手に履かせ、改良を重ねる。
1962年
オレゴン大学をNCAA団体初優勝へ導く。ニュージーランドでアーサー・リディアードのジョギングに触れる。
1964年
フィル・ナイトとブルーリボンスポーツを設立。東京五輪に合わせて来日し、鬼塚喜八郎らと靴づくりを話し合う。
1965年
ケニー・ムーアの足の故障を受け、クッションや支持性を改良。オニツカへ試作品と指示書を送る。
1967年
医師W・E・ハリスとの共著『Jogging』を出版。健康のために走る習慣を広める。
1970年
オレゴン大学が4度目のNCAA団体優勝。ワッフルメーカーを使い、グリップと軽さを両立する靴底の実験を進める。
1972年
ミュンヘン五輪で米国陸上代表ヘッドコーチを務める。ナイキ コルテッツが登場し、米国五輪選考会に向けてムーンシューも製作される。
1973年
オレゴン大学のヘッドコーチを退任。後任のビル・デリンジャーへ指導を引き継ぐ。
1974年
ワッフルトレーナーが登場。ラバーの突起を備えたソールが、競技選手から一般のランナーへ広がる。
1977年
フィル・ナイト、ジェフ・ホリスターとアスレチックス ウエストの設立に関わり、陸上選手の競技活動を支える。
1981年
米国陸上競技の殿堂入り。コーチとしての功績が称えられる。
1982年
オレゴン・スポーツ殿堂入り。地元のスポーツ発展への貢献が評価される。
1992年
オレゴン大学スポーツ殿堂入り。選手育成とチームを全米屈指へ導いた功績を残す。
1990年代
ナイキの取締役として活動を続け、シューズ開発にも助言。競技者と地域の陸上競技を支える。
1999年
12月24日、オレゴン州フォッシルで逝去。88歳。選手のために靴を作り替えた姿勢は、ナイキの開発思想に受け継がれる。
BILL BOWERMAN 1911–1999
THE SHOES
特集で紹介した代表シューズ
ケニー・ムーア用の手製シューズ
個々の選手の足に向き合った試作品。
コルテッツ
長距離走を支えるクッション構造と、ソールのライン。
ムーンシュー
手作業で作られた初期のワッフルソール。
ワッフルトレーナー
ワッフルのグリップを、多くのランナーへ届けたトレーニングモデル。
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SOURCES & CREDITS
参考資料・写真出典
写真:Nike / Department of Nike Archives
BOOK / SHOE DOG
SHOE DOG — フィル・ナイトが語る、ナイキの創業物語。
ビル・バウワーマンとともにナイキの礎を築いたフィル・ナイト。その歩みを本人の言葉でたどるのが、自伝『SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。』だ。
日本のオニツカとの出会い、ブルーリボンスポーツの立ち上げ、ナイキブランドの誕生。資金繰りの苦労や仲間との関係を通して、世界的なスポーツブランドが形になるまでを描く。
バウワーマンのシューズ開発を、会社を育てたナイトの視点から読み直せる一冊。コルテッツやワッフルが生まれた時代を、日本とのつながりや創業期の出来事とともに知ることで、ナイキの歴史をさらに深くたどれる。


